紅型とは ~琉球王朝時代に華開いた魅力あふれる染め物~
紅型(びんがた)とは沖縄の伝統的な染め物であり、
日本を代表する型染めのひとつです
伝統工芸品としての登録名称は「琉球びんがた」。
発祥は沖縄と呼ばれる前の琉球王朝時代の15世紀頃。
ちょうど江戸中期にあたる頃に確立されたと推測されます。
色鮮やかで様々な植物や鳥・蝶などが生き生きと染められた布からは、豊かな生命力を感じることができるでしょう。
知れば知るほど奥深い魅力あふれる紅型を、「紅型 工房チリントゥ」がご紹介していきます。
琉球王朝時代の紅型
かつて琉球王国は中国、南方諸国、また江戸幕府とも盛んに国交をしており様々な品物がもたらされました。
技法や模様は、様々な文化の影響を受けて発達したと考えられています。
そんな紅型ですが、発祥時期は定かではありません。
だいたい15世紀頃から徐々に発達したのではと思われます。
- 文献に王府絵師が王女の為の図案を描いたという記録が1682年。
- 沖縄県久米島に残る最古の現存する紅型の幕にある年号は1757年です。
(※工房チリントゥ調べ)
誰が着ていたのか
着用が許されたのは、王族や士族の上流階級。
王族の女性、元服前の王族と士族の男子、士族の女性が着ていました。
主に儀礼の時に着るものでしたが、第一儀礼服は中国のものだったようです。
冊封使をもてなす踊りの中でも着用され、紅型の鮮やかな衣装での舞いは人々を魅了したのではないでしょうか。
王府の保護のもと発達
かつての琉球王朝は小さな海洋王国でした。
大国との外交を行うなかで美術工芸品がうまれていきます。
明への進貢船第一号(1372年)の献上品として登場するのは漆器。
漆製品の螺鈿という技法の材料に使う夜行貝は琉球の特産品で、王府の中には貝摺奉行所が設けられていました。
この貝摺奉行所、紅型とも深く関係しています。
紅型は王府の保護のもと、染められていました。
貝摺奉行所は、今でいう官庁のような機関でデザイン専門の人がおり、
作成された指示書に従い首里城周辺に集められた紺屋が型彫りをして染めまでを行いました。
材料なども配給され、職人の中には士族の称号を得るものもいました。
琉球時代の紅型の柄
琉球時代に染められた紅型の模様のことを古紅型とか古典紅型とよんでいます。
古紅型の模様には、和の模様が多数見られます。〔1〕
聞くところによれば、京都の友禅や能の衣装の模様が 当時の琉球王朝へ伝来したのではないかということです。
また、清王朝の衣装の模様を模したものもあります。〔2〕
様々な国と国交があった琉球だからこそ生まれた極めて貴重な染物です。
模様に関して非常に興味深いのは、沖縄固有の動植物がないことです。
沖縄には豊かな自然があり、現在では沖縄らしい柄が沢山うまれていますが、
この頃の柄にはそれらは見当たりません。
大柄から小柄まで、多種多様な模様があります。
〔1〕代表的な和の影響を感じさせる紅型模様:
桜・松竹梅・菖蒲・菊・鶴・雪輪・もみじ・鉄線・茶屋の柄・扇子・雲や霞み・絞りの模様等
〔2〕代表的な中国の影響を感じさせる模様:
龍・鳳凰・牡丹・桃・蝙蝠等
紅型の特徴
型染めの一種である紅型には大きな特徴がいくつかあります。
一枚型が基本
紅型は多色染めですが、摺り友禅などと異なり1枚の型紙で染めていきます。
※例外として二枚使う朧型という技法もあります
顔料を使う
鉱物由来のものや、胡粉のような貝から採れるようなものがあり、どれも固形物です。
それらを細かく磨り潰し、呉汁と混ぜて色をつくります。
色は顔料6種程を調合したもので、布に筆で染め分けていきます。
呉汁(ごじる)とは大豆の絞り汁で、布に顔料をくっつける接着剤の役割をもっています。
隈取りと呼ばれる独特な色合わせによるぼかし
隈取りは、色を入れた場所にさらに上から違う色を入れてぼかしていくものです。
隈取りを行うことで、柄に生命力が宿るように感じます。
立体感を出すことなどが主ですが、中にはシマシマの隈取りや水玉の隈取などユニークなものもあります。
分業せず、すべての工程を一人ないし一つの工房内で行う
デザインから染め上がりまでを一人で又は一つの工房で行います。
技法
型紙を使う紅型の他、筒描き、又藍染めによる藍型も紅型に含まれます。
工程
よく聞かれることとして地染めは模様の先か後かというのがありますが、
地色を入れるのは模様を染めた後です。
白地型紅型の場合
デザイン→型彫り→紗張り→型置き→地入れ→色差し→二度刷り→隈取り→洗い→完成
さらに地染めを行う場合
糊伏せ→地入れ→染料作り→引き染め→蒸し→洗い
染め地型紅型の場合
デザイン→型彫り→紗張り→型置き→地入れ→色差し→二度刷り→隈取り→糊伏せ→地入れ→染料作り→引き染め→蒸し→洗い
筒描きの場合
下書き→筒引き→地入れ以降は〈染め地型紅型の場合〉と同様
紅型の危機と復興
琉球王朝時代に華開いた紅型は、廃藩置県後から幾度もの衰退の危機にみまわれることとなります。
1879年に明治維新により王朝が解体され沖縄県になると紅型は衰退していきます。
沖縄は徐々にインフラも整う中、日本との同化政策により方言禁止や差別も受けることになります。
またソテツ地獄と言われる飢饉が襲います。
昭和時代に入ると東京で琉球ブームがおこり、一時紅型も復興の兆しを見せます。
しかし第二次世界大戦が開戦、1945年、米軍が上陸し沖縄戦により多くの人の尊い命が失われ、
焦土と化した沖縄では、紅型の反物はもちろん型紙や道具なども失うこととなります。
そんな中、城間栄喜氏と知念績弘氏の両氏が紅型を復興させていきます。
今、紅型があるのはこの両氏のおかげなのです。
1973年には紅型は無形文化財に指定されます。
現在の紅型
現在は、紅型を戦後復興させた人々の孫世代が活躍する時代となりました。
今の沖縄では、紅型宗家関係だけではなく、
さまざまな工房や教室で学んだ作家さん達が出てきています。
古典的紅型はもちろん、現代風紅型など作風もさまざまです。
又、以前は首里周辺に集まっていた工房は、現在は沖縄本島全土、離島に至るまで各地で拠点を構え活動しています。
そして、工房チリントゥのような沖縄以外でも活動する工房もうまれています。
《沖縄で紅型が常設展示されている場所》
- 那覇市伝統工芸館https://kogeikan.jp/
- 沖縄県立博物館https://kogeikan.jp/
注)必ずしも展示を保証するものではありませんので来館前にご確認ください。
《参考文献》
- 「マンガ 沖縄・琉球の歴史」上里隆史(著) /河出書房新社
- 「すぐわかる沖縄の美術」宮城 篤正 (監修) /東京美術
『チリントゥの紅型辞典』は大阪の紅型 工房チリントゥが独自に制作しているものです。
この記事についてのお問い合わせは下記HPへ
- 紅型 工房チリントゥhttps://tirinto.com/