貝摺奉行所とは

紅型ともつながりのある行政機関、
何をしていた場所なのでしょうか?

琉球王朝時代の紅型のことを調べていると、「貝摺奉行所」(かいずりぶぎょうしょ)という聞きなれない名称に出会います。

当時の紅型のデザインを行っていた場所ということなのですが、
なぜこんな変わった名前なのでしょうか?

王府の行政機関のひとつ

この場所は、16世紀にできたとされる王府の行政機関のひとつです。
最古の記録は1621年。

当初は漆工芸専門の螺鈿細工をつくるところでしたが
徐々に工芸全体のデザイン部門の役割も担うようになり織物や紅型のデザイン画を描くようにもなったということです。

螺鈿(らでん)というのは夜光貝をおもな原料とし漆器を装飾する技法のことを言います。
簡単に説明をすると、貝を摺ったり煮たりして薄くし、文様に切り抜き器に漆や膠で貼り定着させます。

それで貝摺奉行所という名称なのですね。

黒地や赤地の土台にキラキラと美しく輝いた螺鈿細工はとても映えて、それらの漆器は大変美しいです。

紅型との関わりについて

紅型は、その当時は王朝の保護の元で染められていました。
貝摺奉行所では絵師が紅型のデザインもおこし、染められていたようです。(※すべてではない)
そのデザイン画をもとに、首里城周辺に集められた紺屋が型彫りをして染めていたわけです。

紅型で現存する昔のデザインは和の模様が圧倒的に多いのですが、組み合わせや配置、色使いなどが絶妙なバランスで染められています。
とくに尚家伝来の衣装を見ると格調高いデザインと見事な配置。
絵師が描き起こしたと聞くと納得してしまいます。

反対に、小紋柄を中心としたほんわかゆるりとしたユニークなデザインも数多く残っており、
これらのデザインも絵師が行っていたとしたら、大変自由度が高いなと思わずにいられません。

実際は、誰が行ったのだろうかと、思いを巡らせるのも又楽しいです。

中国皇帝への献上品を制作していた貝摺奉行所

漆器は、もともとは中国から伝来したもの。

その中国の皇帝へ献上する漆器には、大変な力を入れて制作されたのではないでしょうか。
そういった背景もあり、琉球漆器は大きな発展を遂げたのかもしれません。

琉球漆器には螺鈿だけでなく様々な技法があるのですが、北京の紫禁城の跡地、故宮博物院には琉球国王が献上した最上級の漆器の数々が残されています。

進貢船第一号となる1372年の記録には、中国(当時の明)への貢ぎ物として螺殻とあるそうですが、
やがて材料だけではなく螺鈿細工漆器としても献上していったのですね。

螺鈿以外には、沈金や箔絵、堆金などの技法があります。

王朝の解体と共に1879年に貝摺奉行所は廃止されます。
「琉球漆器」は1980年に伝統工芸品に指定されています。


《参考文献》

  • 「マンガ 沖縄・琉球の歴史」上里隆史(著) /河出書房新社
  • 「すぐわかる沖縄の美術」宮城 篤正 (監修) /東京美術
  • 那覇市歴史博物館ホームページ

『チリントゥの紅型辞典』は大阪の紅型 工房チリントゥが独自に制作しているものです。
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